第4話「舞台に溶かされて」

一番嫌いなのは引用リツイートで、その次に嫌いなのがミュート機能だ。

ミュートは「うるさい」って陰口を言われた気がするから。引用リツイートは、勝手に知らないコミュニティで噂されている感じがして、すごく怖い。

 

私は寝転んだままスマホを額の上にかざすようにして、じっと画面を眺めた。下へ、下へとスクロールする。両手で文字を打ち込み、ちょっと考えてから送信ボタンを押した。

「だるすぎて保健室」

誰かに向けてのメッセージではなく、SNSに投稿しただけの短文。

数分後にリプライのマークが表示され、私は急いで内容を確認しに行った。

「体調大丈夫ですか? ていうか夏休み中も学校いるんですね!」

そんな返信が来ていた。まだ会ったことはないけれど、ネット上で仲良くしている人だ。おそらく、女性。

「大丈夫です! 文化祭の準備で集まんなきゃいけなくて」

「うわ、おつかれさまです~。学生は大変だなあ」

あと、たぶん社会人。年上のはず。

彼女とは、女性アイドルが好きという共通点で知り合った。お互いに本名も住所もわからないくせに、好きなグループや推しているメンバーのことは良く知っている。そんな関係。

素性の知れない人とやりとりをして、危なくないのかと言う人もいる。でも私の趣味はいわゆる「オタク」の領域まで達していたので、身近に話の合う人はほとんどいない。だから、こうしてインターネット上で趣味の合う人と話すことが一つの楽しみになっていたのだ。やりとりを重ねて仲良くなった人と会うこともあったけれど、あくまで出会いが目的ではない。

 

何回かやりとりをして、ふと時計を見ると、思ったよりも時間が過ぎていた。そろそろ教室に戻るべきだろうか。少しめまいがしていたのは本当だが、半ばズル休みのようなものだったのでいい加減に重い腰を上げた。

ベッドから身を起こし、「コヤマ」と名前の書かれた上履きをひっかける。その赤い先端を見ながら、なんだかこの光景も久しぶりだなあと思う。

以前、私は用もなく保健室に入り浸る人間だった。授業をサボることはしなかったものの、休み時間や、朝の始業前のほとんどをこの部屋で過ごしていた。理由は教室に居ても話す友人がいないからという単純なもので、要するに孤独だったのだ。最近はなんとなく足が遠のいていたが、残念ながら友達が出来たわけではない。下級生の不登校気味の子が保健室によく来るようになっていて、すこぶる元気な私がいるべきではないと感じた、それだけだ。あるべき姿といえばそうだが、保健室を長らく憩いの場にしていた身としては、かなりの痛手だった。

今日は夏休みで、例の不登校児はいないだろうと踏んで思わず駆け込んでしまった。いじめられているわけではないけれど、教室が居づらいのは変わらない。

 

教室に戻ると、すぐにクラスメイト何人かがこちらに気づいた。

「あっ、コヤマさん大丈夫?」

そう声をかけてくれる皆の手には、プリントをホチキスでまとめただけの冊子がある。私のクラスは文化祭で演劇をやることになっていて、その練習が少しずつ進んでいるところだ。とはいえ全員が役をもらっているわけではないので、練習の日にクラスの全員が揃っているわけではない。

「ごめん、もう大丈夫」

気遣いの言葉に、バツの悪い思いで目をそらした。

文化祭の準備なんて、学校生活を楽しく謳歌している人だけでやればいいのに。そう思っても、今回ばかりは知らんぷりをしているわけにいかない。

「やっぱり主役がいないとね」

「あは…」

誰かが言った「主役」という単語が重くのしかかる。

言うまでもないことだが、私はクラスの中心的な存在ではない。教室の隅で本を読み、隙あらば保健室に避難するタイプの生徒だ。それなのに、主役。地味で目立たない私が、誰にも望まれず主役の王様を演じる羽目になったのはちょっとした事故みたいなものだった。

 

 

私のクラスには、生徒会長のハセガワさんという女の子がいる。

彼女はなんというか、サバサバしているが故に人から信望されるタイプの人だった。しかも成績優秀かつキリっとした目元が生徒からの人気を博し、この四天座高校で王子様というポジションに収まっていたのだ。

通常、共学と比べて女が女を捨てたような言動の目立つ女子高で、ハセガワさんは絶対的な王子様として清涼剤の役割を果たしていた。ハセガワさんの前では皆おしとやかにするし、共通のエンターテインメントを持つ者として足並みを揃える。馬鹿みたいに思うかもしれないが、人気のある生徒というのはどの学校でも規律のような存在になるのではないだろうか。ハセガワさんに嫌われないことが私たち一般生徒の最低限の身だしなみであり、行動規範だった。

ハセガワさんは、言わばスクールカーストのトップだったのだ。

 

そんなことだから、誰もが主役をハセガワさんにやってほしがった。けれど彼女は、クラスの希望をあっさり断ってしまったのだ。その時のクラス会議の阿鼻叫喚といったら、炎天下に放置した賞味期限切れの牛乳より酷かった。それでも、受験に専念したいという彼女の決断に水を差すようなことは誰も言えず、結局は本人の意思が尊重された。平成が終わるのを今から食い止められる人はいないように、私たちのクラスではハセガワさんを王様にすることができなかった。

そうなると、代わりとなる主役探しが始まるのは自然な流れだった。

主役というのは、普通取り合いになるものなのだろうか? とにかく私のクラスでは、頑なに誰もやりたがらなかった。何しろ完璧人間の生徒会長に、当て書きされたと言っても過言ではないシナリオのはずだ。荷が重い、と何かと理由をつけて辞退していくクラスメイトを傍観していたところ、ふいに「コヤマさんって進学だっけ?」という声が教室の中を貫いた。

「え?」

完全に他人事と思って会議を聞いていた私は、突然の名指しに間抜けな声をあげたのを覚えている。見れば、いつの間にか大勢の目が私の方を向いていた。あの恐怖を未だに忘れられない。

話し合いの末、「受験や就活で忙しくない人」「今のところ役をもらっていない人」「できれば滑舌が良い人」そんな条件にピタリと当てはまるのが私だけだった。

確かに私は専門学校志望だったので、勉強はそこまで必要ない。けれど文化祭の日の夜には気になっているアイドルのライブがあって、あわよくばサボりたいとすら思っていたのに。もっと忙しいアピールをすればよかったのかもしれないが、対人恐怖症のきらいがある私にプレゼン力などあるはずもなかった。馬鹿正直に答え、慌てふためいているうち、なかば押し付けられる形で私は主役になってしまったというわけだ。

 

 

やったこともない演技は、まず台詞を覚えることすら大変だった。気持ちなんてこめる余裕はない。あてがわれた王様の役は向上心が強いくせ、心が弱い矛盾をかかえていたが、そんな難しい役は到底できっこないと打ちひしがれる。

だいたい、ひっそりと生きてきた私には、人の上に立ちたいという気持ちがあまりわからないのだ。目立ちたくないというよりも、これまで人目に晒されることで嫌な思いをした経験が焼き付いてしまっている。

 

アイドルにアニメに漫画。私の好きなものは、とにかく馬鹿にされやすかった。

最近は市民権を得たようにも見えるけれど、まだ差別は残っている。加えて、私は趣味に対してとことんのめりこむタイプだった。のめりこんで、なけなしのお小遣いをはたいて、全部投資してしまう。本来の意味で「オタク」だったのだ。私と同じような人はネットにはたくさんいるのに、現実では一人もいない。隠れているのかもしれないが、隠すようなことだと感じている時点でまだ迫害される存在なのだろう。

かくいう私も、オタク趣味を隠せるような器用さはないけれど、誰かに積極的に話すことはしなかった。見下されないように必死に虚勢をはることもあったし、話の合わない人の中にいるとそっと身を隠してしまうことはやめられない。こうして文化祭の練習している今も、誰一人として嫌われたくないあまりに、誰一人として心を開けないで居る。

 

台本を読む間、私の顔に活気がなかったのだろう。体調は大丈夫かと声をかけてくれる子もいた。気を使ってくれているのだろうけど、それなら今すぐ主役を降ろさせて欲しい、なんて嫌なことを思ってしまう自分がいる。

「ねえ、次の練習日、バスケ部が休みなんだって」

元バスケ部の子がそんなことを口にしたのは、そろそろ今日の練習もお仕舞いにしようかという時だった。部活を引退して久しい彼女はスマートフォンを見ながら、誰かとやりとりをしているみたいだった。ちょっと目をあげると「せっかくだから体育館で練習しない?」と口にする。

舞台の上、バスケ部がいる日は使えないし。そんな提案に、皆で顔を見合わせる。まあ、いいんじゃないの。そんな空気が流れて、しばらくすると滲み出るように興奮が湧き上がった。教室での練習に正直飽きていた私たちは、舞台の上で練習なんて「それっぽい」ことに胸を高鳴らせたのだ。この時ばかりは、私の心拍数も少しだけ上がった。

「じゃあ、次回は体育館で!」

ステージの上に想いを馳せ、私はその帰り道、ちょっと早足で帰宅した。

 

 

「次回」は思ったよりも早く来た。あれほど期待していた体育館は、熱と湿気が停滞して、夏の悪いところを全部詰め込んだような状態だった。

「……」

「…あっ…つ…」

ぐずぐずと蒸すような暑さに、皆の瞳から光が消えている。今日は夏休み真っ盛りの八月中旬。教室と違って冷房がないことを完全に失念していた。

こんなの熱中症になっちゃうよ、そう言って舞台袖の扇風機を稼働させるが、気休めにしかならない。夏休みの体育館を完全に舐めていた私たちは、扇風機の前に並んで「ああああ」と宇宙人のような声を出すだけの廃人になってしまった。さすがの私も「輪に入るのが怖い」なんて言っていられずに扇風機を取り囲む集団に混じる。こんな中で、普段バスケ部が活動をしているのは尋常じゃないように感じた。

私は持ってきたペットボトルをあおると、手で顔を煽いだ。うなじにはりつく髪の毛が気持ち悪くて、いつもより高い位置で髪を結び直す。制汗スプレーをまき散らし、あたりをシトラスの香りでいっぱいにしたあたりで「そろそろ練習しよう」と誰かが言った。

舞台袖から出てステージを歩く。その瞬間、何とも言えない、背筋を走るような高揚感があった。高校生活はずっと帰宅部で、とりわけ表彰されることもなかった私が壇上に上がること自体が初めてだったのだ。

舞台の中央から体育館を見渡して、私はしばらくその場から動かなかった。

「コヤマさん、始めるよ」

「あ、うん」

呼ばれて慌てて駆け出すと、上履きがフローリングのうえでキュッと鳴る。ところどころに傷のついた床は、これまでの、そう浅くない学校の歴史を物語っていた。

舞台道具も何もできていない中、制服のままの練習を始める。立ち位置の目安だけガムテープで印をつけて、やっていることは教室でやるのとほとんど変わらない。それでも教室よりずっと広い空間では、声が全然届かないことを知った。付け焼き刃の発声練習では、意識しないとすぐに声が小さくなる。こんなに汗をかいて、なにをやってるんだろうかと思う。でも、少しずつ台詞や立ち振る舞いを覚え始めて、練習を楽しく感じる自分もいた。

 

彼女が現れたのは、みんなが集まって一時間は経った頃だ。

「ハセガワさん!」

そんな声に体育館の入り口を見れば、制服をきっちりと着込んだ生徒会長がいた。こんなに重たい灼熱地獄の中でも、皆の王子様は不思議と涼しげに見える。

舞台に上がったハセガワさんは、すぐさま皆に囲まれた。

「久しぶり」「来ると思わなかった」「どうしたの?」

そんなことを矢継ぎ早に言われても、ハセガワさんは表情を崩さない。

「今日、生徒会の集まりがあったから。差し入れ持ってきたから食べて」

そういって彼女が掲げたビニール袋の中には、輝かしく光るアイスの箱が入っていた。「わーい」と手放しで喜ぶクラスメイトをよそに、私は何となく無言でいた。

正直、私がこんな分相応でない役をする原因となったハセガワさんに対して、負の感情がないと言えば嘘になる。受験のためという理由は至極まっとうで、私のこの気持ちも理不尽なものだとは理解していた。でも、きっと彼女は、私と違って全部受け入れてもらえる存在なのだと思うと、どうにも悔しいのだ。

本当は皆に受け入れられたい。でも、私は受け入れられないことの方が多かった。人望のある生徒会長とは違う。王様役なんて、彼女がやるべきだったに決まっているのに。

「コヤマさんも。良かったらどうぞ」

こんなに汚い感情を隠している私にも、ハセガワさんの優しさは平等に差し出された。

「あっ、ありがと…」

上手く声が出ず、しどろもどろになる。適当に取ったアイスキャンディーは深い紫色をしていた。複雑な気持ちもあったが暑さには勝てず、透明な袋を開封して口に含む。

つめたくて、甘くて、飲み込むと頭がキンとした。

舞台から足だけを投げ出す形で座る。なぜかハセガワさんも私の隣に腰を下ろしたので、ギョッとして顔を見つめてしまった。

「今日、ポニーテールなんだね」

「えっ、うん」

話しかけられて、目を白黒させる。私なんかよりも、もっと仲の良い子がいるはずなのにどうして構うのだろう。そんな私の動揺をよそに、ハセガワさんは話を続けた。

「いつもツインテールだから、なんか珍しい」

「あー、ね。暑くて。ロングって夏しんどいよね。髪切りなよって言われるけど、中途半端な長さだと余計うるさいし…」

いつもより早く回る口に、顔が赤くなるのがわかった。もっと余裕のある対応をしたいのに、切羽詰まってどうしようもない。アニメに出てくるみたいな髪型は嘲笑されたこともあって、警戒するあまり饒舌になってしまう。

ペラペラと話していると、ハセガワさんが途中から一言も話していないことに気づいた。一方的に話し続けていた事実に青ざめ、機嫌を損ねてしまったかもしれないと目を泳がせる。

「…あの」

どうしたものかと戸惑っていると、ハセガワさんが口を開いた。

「コヤマさん、私のせいで大変な役になっちゃったね…」

ごめん、と呟くような声が聞こえる。最初、何を言われているのかわからなかった。数秒を経て意味を理解し、素直に驚く。彼女は自分の言ったことは押し通すイメージだったから、まさか私を気にかけているとは思ってもみなかったのだ。

じわりと舌の上で溶けたグレープ味と、ハセガワさんの申し訳なさそうに伏せた目が頭の中で重なる。

「や、いいよ…うん。ハセガワさん受験あるんだもんね!」

考えるより先に言葉が出ていく。どきどきして、なんだかくらくらする。完全に気が動転していた。

このアイスの意味は、きっと謝罪だ。

ハセガワさんは思ったよりも文化祭に協力できないことを気に病んでいて、クラスに、そして私に対して罪悪感を持っているらしかった。そんな彼女の意図はさておき、皆からすると「暑い日に差し入れをくれる優しい人」という風に映っているのだろうから、何をしても株を上げてしまう星回りなのかもしれない。

王子様は、全部思い通りの人生を歩んでいるわけではなさそうだった。

「ハセガワさん、あの…」

要らない責任を負っている彼女に、何か伝えなくてはと思った。でも、どう伝えて良いのか、そもそも何を言えば良いのかもわからず口を閉ざしてしまう。

「……」

言葉の出てこない私を、ハセガワさんは静かに待っていた。じっとりと濡れるような熱の中、こめかみを汗がつたう。再度口を開いたとき、手の甲に冷たいものが触れた。

「あ」

「あ…あー!」

見れば、せっかく貰ったアイスが床に落ちて無残な姿になっていた。二人で慌てて床を拭き、後始末をする。そこで私たちの会話はうやむやになってしまった。あらかた片付いたところで、ハセガワさんは「じゃあ、そろそろ戻るね」と言って荷物を持った。そして、最後にゆっくり目を合わせると「私より、コヤマさんの方が上手にできるよ」と口にした。何が、とは言わなかったけれど、たぶんハセガワさんなりに色々考えての発言なのだろう。私は、何も言い返せなかった。

 

 

文化祭までの日々は、舞台のための小道具を作ったり、クラス全体で何回かの合同練習をしたり、なんというか、私は今までにないような絵に描いた青春を送っていた。

とはいえ文化祭を通じてクラスになじめたという感じはなく、むしろビジネスライクな馴れ合いだったと思う。皆、あわれにも王子の代役を務めさせられた私に憐憫をこめて優しくしてくれるのだ。少なくとも、私はそう感じていた。

新学期が始まって、ハセガワさんとは目も合わなかった。もともと彼女は目を伏せる癖があるらしいことがわかったが、それと同時、ハセガワさんのことを無意識に観察している自分にも気づいて釈然としない心持ちになる。

文化祭当日の九月二十九日は、朝早くからクラス全体でばたばたと舞台の準備をした。夏はだいぶ落ち着いていて、あの猛暑の日のように大量の汗はかかなかったし、長袖の衣装を着ても苦痛ではない。私は「インパクトがあるから」という理由で髪型をいつもどおりのツインテールにさせられた。

 

開演の合図は雷の音だ。

私は魔女役の女の子たちの声を聞きながら、じっと出番を待つ。さっき客席を覗いたところ、観客はまばらだった。舞台に参加しないクラスメイトも何人か着席していたが、真面目に観る人間なんかほとんどいないだろう。そう思うのに、私の足はわずかに震えていた。

「コヤマさん」

囁くような声と同時に肩を叩かれ、跳ねるようにステージへ向かう。

ライトの下で、頭の中が真っ白になった。たくさんの目がこっちを見ているのを感じて、ざわっと胸が騒ぐ。人目に晒されることは、未だに苦手なのだった。初めてステージを歩いた時の高揚とは違う、いつもより全身の血の量が多いような、それでいて貧血を起こしそうな感覚がした。

「コヤマさんの方が上手にできるよ」

ふと、そんな予言じみた言葉を思い出す。

無責任な言葉だと一蹴してしまうのは簡単だったが、私はその言葉にすがった。

あんなに嫌がっていた練習で、あんなに不安に思っていた役だ。それなのに今、私は「成功させたい」という考えだけで声を振り絞った。一緒に準備をしてきた、他のクラスメイトも同じ気持ちだったと思う。私は舞台の間、紛れもなくクラスの中心に居た。

 

 

「打ち上げの場所どこだっけ」

「駅前! ホームルーム終わったらみんなで移動しよう」

全ての公演が終わり、クラスはお祭り気分をそのまま引きずって打ち上げの話題で持ちきりだった。舞台の出来はどうだったとか、深く話す人はほとんどいなかった。楽しむための文化祭だったのだから、当然ではあるけれど。

完全に気の抜けた私は、スマホでSNSアプリを起動し、ぼんやりと自分の世界に潜っていった。アイドルのアカウントを覗いて、教室の時計と見比べる。

「コヤマさんも来るよね?」

ふいに声をかけられて、背筋が伸びた。

「…あー…、何時からだっけ…」

打ち上げに誘われているのだと気付き、思わず言葉を濁らせる。

実を言うと、この後はアイドルのライブに行く予定でいた。放課後、すぐ向かえば間に合うのだ。打ち上げに行きたい気持ちはやまやまだったが、今日のイベントはずっと楽しみにしてチケットを取ってしまっていた。それこそ、文化祭の話し合いが始まる前から。しばらく逡巡し、「ごめん、実は用事があって」と眉を下げる。きっと参加したところで、私は無言でうつむいているだけだろう。

「用事って何?」

「えーと…」

「いいじゃんせっかくだし、行こうよ!」

私が遠慮していると思ったのか、クラスメイトは半ば強引に誘ってきた。これで普通なら折れるのかも知れないが、私には「どうせ馴染めない」という卑屈さがまだ残っていた。人の輪に入る行為に対して、圧倒的に自信がないとも言える。結局、上手く断ることも出来ずに「考えとくね」とだけ答えた。

 

放課後、廊下に溢れ出した生徒のほとんどは、それぞれのクラスの打ち上げに向かうようだった。私も観念したふりで打ち上げに向かう集団の傍にいたが、少しずつ行列の後ろに逃れ、そっと皆から離れた。

廊下を小走りで通り抜け、階段をおりる。週明け、何か言われるかもしれない。でも、誰も私が居ないことに気づかない可能性もあるんじゃないかと自虐的なことを考えた。

「コヤマさん」

名前を呼ばれて、心臓が跳ねる。

振り返ると、長い黒髪の隙間から切れ長の瞳と目が合う。階段の上にいるせいか、余計に足が長く見える彼女は「打ち上げいかないの?」と続けた。真夏の体育館以来、初めての会話だった。

「あ、ちょっと、用事が…」

「へえ」

ハセガワさんはゆっくりと階段を降りて、私と同じ場所に立つ。それでもだいぶ目線が高くて、私は見上げる形となった。

「まあ、私も行かないけどね」

「えっなんで! みんな待ってるよ」

「主役やってた人に言われたくないなあ」

笑いながら、もっともな指摘を受けて何も言えなくなる。でも、私はきっと打ち上げにいなくても大丈夫だという謎の自信があった。

「これからどこ行くの?」

そんなことを訊かれて、誤魔化すように笑う。こういう時、とっさに嘘をつくことができればもっと上手く生きれるのかも知れない。

ちゃんと答えない私をハセガワさんは見逃してくれなかった。許しを請うように隣を見るが、彼女は無言で横を歩き続ける。これには、かなり狼狽した。

自分を、趣味を否定されるのが嫌だ。屈辱だ。だから絶対に、私を否定しない人にしか私のことを話したくない。趣味について学校で話したくない気持ちと、ハセガワさんは私を見下したりはしないのでは、という期待でぐちゃぐちゃになる。

腹をくくって、「ライブがあるんだ…アイドルの」と告げた。

「へえ、アイドル? 誰?」

「いや、知らないかも…テレビとか出てないし…」

「いいから」

グループ名を教えると、彼女は「ふーん」と興味なさそうに頷く。否定も肯定もしない、その表情のまま「それって今からチケット取れるの?」と口にした。信じられないような目で見てしまう。

「うん…当日券、あるよ」

他人に何も望むな、と警告する自分がいる。一方で、どうせ仲良くなれる人じゃないんだから賭けてみても良いじゃないか、と背中を押す声がする。もしも受け入れてもらえたら、本当に友達になれるだろうか。友達になれたら良いのに。それはクラスメイトに対して初めて抱く感情だった。