第1話「夜の箱庭」

ずっと、得体の知れないものに苦しめられていた。

その正体がなんなのかわからないまま、私は三ヶ月の停滞を経て、ようやく足先を世界に伸ばしてみることにしたのだ。

 

硬い革靴をひっかけると、玄関の戸をゆっくり開ける。隙間から侵入する日差しにひるむが、この期に及んで後退することは許されないと足に力をこめた。

連休明け、月曜日、晴天、クリーニングからおろしたての制服と、あおっちろいけど健康な身体。肌になじまない紺のスカートはきちんとのりがはって、プリーツはまっすぐに伸びている。

登校する準備はすべて揃っていた。あとは、精神が伴わないだけだ。

制服のリボンを指でなぞり、控えめに顔だけで振り返る。「ミツイ」と書かれた表札と見慣れた玄関が、これほど離れがたい魅惑的なものだとは思わなかった。

名残惜しさを振り払うようにクッと口を引き結んで、私は小さく一歩を踏み出す。五月の通学路は、暖かく若葉の匂いを滲ませていた。

 

白状すると、実に三ヶ月ぶりの登校だった。高校二年生になってから初めて、新学期という最高のタイミングを逃した中でどうにか重たい腰をあげて今に至る。

不登校になった理由は自分自身でもよくわかっていない。それなりに勉強をして入った女子校だったはずなのに、なんとなく学校に行くことが億劫になってしまって、けれど怠惰の一言で片付けるにはどうしようもなく気が滅入っていた。

もちろん、最初にズル休みをした時にはここまで長引かせるつもりはなかったのだ。ただ、一日だけのつもりが週に何回も休むようになり、一年生の最後の方はずっと引きこもっていた。

そして、不在が続いた場所には復帰が難しくなる。

私が自分の将来を案じた時には、とっくに教室での居場所はなくなっていた。一週間空席をつくった時点で、私という存在は異物に変わってしまったのだ。

きっと誰かがいなくなると、その隙間を埋めるように空気が動いて、徐々に居場所だった穴は塞がれていくのだと思う。そうやって、誰かがいなくなっても大丈夫なように機能している。代わりがいるってことは気が楽だし、永遠じゃない人間にとっては大切な機能だろう。でも、それなら私はいなくても良いんじゃないかと思ってしまう。ただでさえ高校にはたくさんの人間がいて、同じ教育を受けている。その場所に私はいなくても平気だ。ましてや義務教育でもないのだから。

 

久しぶりの通学路、前回通ったのはまだ二月だった。整備されていない土の上には霜柱が立っていて、私が歩くたびに音をたてて崩れていくので気が引けたのを覚えている。今は、そんな引け目も許されないくらいに地面が乾いていた。

いつも犬が吠えてくる家の前を通過し、薬局のある角を曲がり、大通りをまっすぐに進む。最寄りから数えて三つ目の駅を出れば、学校はすぐそこだった。

「帰りたい」と何十回も心の中で唱えつつ、無事に学校にたどりついてしまう。散々な呪詛の裏で、登校できたことはきっと今後に良く影響すると信じていた。みんなができているはずのことを自分だけができないのは、精神衛生上とても良くない。

 

こそこそとうつむきがちに校門を通過し、校舎までの道のりを足早に進む。昇降口が近づくにつれて、心が張り詰めていくようだった。二年生の下駄箱の前に誰もいないことを確認すると、急いで上履きに履き替える。塞がったはずの穴をこじ開ける身としては、クラスメイトの視線が一番こわい。

途中で手が滑ってローファーを掴めなくなり、パニックを起こしかける。なんとか自分の下駄箱につっこむと、最後は小走りでその場から逃げた。息が乱れ、心臓がばくばく鳴っているのが情けない。苦しくて、制服のボタンをひっかいた。これから教室に行って、クラスメイトとも対峙しなくてはいけないのだ。こんなところで戦々恐々としていては仕方ないのに。

 

心拍数が平常に戻ったところで、教室に行く前に職員室に立ち寄ることにした。逃げの心もあったが、私が登校するに至るまで根気よく連絡をしてくれた担任に挨拶をしておこうと考えたのだ。

職員室の前で息を整えてから、控えめなノックをする。「失礼します」と口にするも、自分でも驚くほど小さい声しか出なくて困惑した。恥ずかしくて、誰にも気づかれないのではと不安になったが、すぐに「あっ」と声があがる。

声のした方を見ると、ちょうど担任と目があった。華奢な女教師だった。彼女はわなわなと口を震わせていたかと思うと、椅子を騒がしく揺らして立ち上がり、駆け足で近づいてくる。

一年生の時も私の担任で、ずっと、動かない私を待っていてくれていた人だ。そんな人が私の目の前まで来て、みるみる破顔し「よく来たね」と掠れた声で口にする。本当にうれしそうに肩をたたくから、私はあと少しで泣くところだった。すんでのところで眉間に力を込め、涙腺を締める。久しぶりの学校は古い木の匂いがした。

 

「今日はどうしようか」歓迎もそこそこに、そんなことを言われてほうける。「皆と一緒にいてもいいけど、久しぶりだから保健室登校にする?」

そういえば、引きこもっている時にそんな提案もされていたはずだった。何故か「登校するなら教室に行かなくてはいけない」という強迫観念にとらわれていた私は、条件反射のように頷く。勇気をふりしぼって登校したものの、今日すべてを克服できる自信はとうになくなっていた。

 

担任に連れられるまま保健室に向かう。扉を開けると消毒液の匂いが鼻腔を刺激した。先に部屋に入って行った担任の背中に身を隠したままそっと中の様子を伺うと、清潔そうなカーテンが瞳に白を映す。私は身体こそ健康だったので保健室のお世話になったことは今までなく、目新しい空間にキョロキョロと目を走らせた。四角を敷き詰めたようなフローリングだけが、歪なくらいに学校であることを主張している。

「養護の先生、今いないみたい」

担任の声に顔をあげる。「ちょっと外に出てるだけだと思うから」と続いたが、私はなぜか嫌な予感がした。いろいろなタイミングを見計らってどうにかバランスをとっている身としては、一つでも条件が欠けることに恐怖を感じたのだ。

「ミツイさん。荷物置いて、そこ座っていいよ」

いつまでもつっ立っている私に担任が声をかけた。顔を横に向けると、普通の教室にはない大きめの机と、パイプ椅子がいくつか並んでいる。はい、と小さく返事をして浅く椅子に腰掛けた。担任は何事か紙に書いているようだったが、私の方を見て微笑んだ。緊張しているのを察されてしまったかもしれない。

「何か用意したほうがいいこととか、知っておきたいことある?」

とっさに何も思いつかなかったので首をふる。

「そう。じゃあ先生はそろそろホームルームに行かなくちゃいけないから、養護の先生が来たらこのメモ渡して、今日はここにいるって言ってね。」

「はい…」

置いていかないで欲しいような、弱音を吐きたい気持ちをぐっと堪える。脆い部分を見せたら、そこから崩れ落ちてしまうだろうから。

そうこうしているうちにドアが閉まり、担任の姿は見えなくなってしまった。しばしぼんやりとした後、手渡された紙を見る。そこには私の名前と、久しぶりの登校である旨、今日は保健室登校させる旨が書かれていた。

取り残された部屋で、もう一度ぐるりとあたりを見回す。机と椅子のほかには、カーテンで仕切られたベッドがいくつかと、応急手当のための道具が並べられた棚、教員用のデスクがある。

完全に手持ち無沙汰になってしまい、うつむいて自分のつま先を見つめた。膝の上で手遊びをしてみるけれど気分は紛れず、扉の外からわずかに聴こえてくる生徒の話し声に神経を尖らせる。

 

布ずれの音が聞こえたのはその時だった。

自分以外誰もいないと思っていたので思わず肩が震える。音のした方を向くと、いくつかあるベッドのうちの一つが、カーテンで締め切られていることに気づいた。そこに誰か寝ているのかもしれない。

そう考えると、いてもたってもいられなくなった。

本当に誰かいたら失礼だ、そう思いながらも、そっと近づいてカーテンの隙間から中を覗く。視界に飛び込んでくる真っ白なシーツ、その上に赤が流れているのでギョッとした。

「……!」

誰かが血を流して倒れている。そう思ったのも束の間、冷静になれば血に見えたものは髪の毛だった。少女の長い髪の毛が光の中で赤茶色に透けている。

その人は、制服のまま仰向けになって目を閉じていた。かすかに寝息が聞こえるけれど、生きているのか疑わしくなるくらいに微動だにしない。

なんだかドキドキして目が逸らせなかった。他人の寝顔を見ている背徳感に胸が躍っていたのかもしれないし、単純に、死んだみたいに眠る姿が綺麗だと思ったからかもしれない。時間が止まったみたいな錯覚に、私はその空間が揺らがないよう息を殺した。

しばらくして、静寂を破ったのはチャイムの音だった。

耳から流れ込んでくる共同生活の象徴にひるみ、近くにあったパイプ椅子を蹴ってしまう。当然、目覚めた生徒と目があった。

「…だれ…」

寝ぼけまなこがだんだん見開かれていく。

「何? 何時!?」

「あ…」

混乱しているらしい彼女を前に、私も頭を真っ白にしていた。なにしろ、同年代の人間と話すのが三ヶ月ぶりだったから。なぜ朝から保健室にとか、具合が悪くて寝ていたわけではないのかとか、気になることはあったがそんなことを聞ける余裕はなかった。

バタバタと荷物をまとめる赤髪の生徒の横で、私はまた棒立ちになっていた。なぜだか、椅子にまた座ることも許されない緊張感があったのだ。立ち上がった彼女は、私よりもだいぶ背が低かった。

「…教室行かないの?」

動かない私に違和感を覚えたのか、彼女は私の上履きの色を確認してから、そう尋ねた。私が履いている緑の上履きは二年生の証で、彼女は赤色だから三年生のはずだ。

「あ、私は、ここで」

たどたどしく答えると、「そう」とそっけなく返して彼女は保健室から出て行ってしまった。

ようやく呪縛から解き放たれた私は、なかば倒れるように椅子に腰掛ける。

「…あは、」

どっと汗が出た。先輩と話しちゃった、あはは。なんて、多くの女子高生が毎日こなしていそうなことに感動を覚えたのだ。

 

結局、チャイムが鳴ってしばらくしても養護の先生は来なかった。

私は一限目が終わるのを待たずに学校をあとにした。

 

「ミツイさん、今度は養護の先生に顔だけでも見せない?」

学校をふけた夜、担任からそんな電話が来た。あ、やっぱりアレじゃだめだったんだ。わかりきっていたことなのに、私はどこかで学校に行けない自分を受け入れてもらえると思っていたらしい。担任の期待に応えられなかった絶望に立ちくらみを起こしそうになりながら、かろうじて「明日は行きます」と答えた。

思い返してみれば、どうして帰路についてしまったのかわからない。あえていうなら赤髪の先輩と話して、それで満足してしまったのかもしれなかった。

…裏切ってしまった。

そんな、責任感とも自分への失望ともとれない言葉が頭の中でひしめく。

優しくしてくれる大人を裏切ってしまった。きっと嫌われる。見捨てられる、置いてけぼりにされる。

そんなネガティブな感情に占拠されて、自分でも異常だと思うくらいに私は怯えた。こんなことなら学校なんか行かなければ良かったとすら考えていて、それでも「学校に行かなくては」という呪いに駆り立てられている。

異常値を治すには正常な生き方をすれば良い。そういう考えが私の中にあった。

 

ストレスのせいか上手く眠れないまま次の日を迎え、私は朝、無言で制服に袖を通した。

「いってきます」

時間は十二分にあったはずなのに、若干の遅刻見込みで家を出る。

まずは一歩。昨日も通った道を踏みしめる。

この期に及んで逃亡した私を、まだ受け入れてくれるのだろうか。そんな不安で、ドキドキと鳴る心臓がいつもより速く感じる。平生がゆったりとした人間なので、鼓動のペースについていけずに胸をおさえた。

いつも犬が吠えてくる家の前を通過し、薬局のある角を曲がり、大通りをまっすぐに進む。最寄りから数えて三つ目の駅を出れば、学校はすぐそこ、のはずだった。

「ドアが閉まります、ご注意ください」

そんなアナウンスを聞きながら、私はただ扉がしまっていくのを電車の中から見ていることしかできなかった。寝不足の瞳が曇っていたわけでも、脳が鈍っていたわけでもない。でも、動けなかったのだ。

ドアがしまります、ドアがしまります…。頭の中で言葉が無意味に反芻され、数秒後には景色が横に流れていく。同時に、私の膝がわずかに震えた。

…ああ、やっちゃった。

私は絶望しながら安堵していた。

息を吸い込むと、ヒュウと音が鳴る。そこで、先ほどからずっと息を止めていたことに気づいた。思い出したように過呼吸気味になり、咳き込むことで誤魔化す。手すりにつかまって、しばらく何も見ないように世界を閉ざした。

昨日から、私はちょっとおかしい。

自分の心をコントロールできなくて、誰に対してかもわからない罪悪感が押し寄せている。学校には行かなくてはいけない。授業を受けて、勉強をして、クラスメイトと良好な関係を育まなくてはいけない…一刻も早く。植え付けられた「そうあるべき姿」が私の頭を押さえつけて見下した表情を浮かべていた。

 

かといって学校や家に戻る気力もなく、人に流されるまま適当な駅で降りる。改札を出て、スクランブル交差点の前で私は頭を悩ませた。降り立った渋谷の街には、数える程度しか来たことがなく、土地勘もほとんどないままどう過ごせば良いのかと、途方に暮れる。

数秒間ほど思考も身体も停止して、とにもかくにも木を隠すなら森の中だと思い至った。平日でも人が多いのを良いことに、私は待ち合わせで使い古された犬の像の近くで腰掛ける。何から隠れるつもりなのか、と言われれば答えに窮してしまうが、とにかく「何かに紛れ込んでいたかった」のだ。

とはいえ、心が落ち着くまでずっとここにいるわけにもいかない。私は鞄からスマホを取り出すと、どこか時間を潰せる場所はないかと探した。自分の姿を省みて、これって、リストラされて公園のブランコに陣取ってるサラリーマンみたいな…とステレオタイプなイメージが頭をよぎる。

 

ふと画面から視線を外すと、スーツ姿の女性と目があった。一瞬のことで、すぐにお互い目をそらす。が、その一瞬、怪訝な顔をされたことに気づいて全身から血の気が引いた。

平日の昼に、制服でここに居る私はどう映るのだろう。少なくとも、リストラされたサラリーマンには見えないはずだった。校章の入った仕立ての良いブラウスを、コスプレだと都合よく解釈してくれるとも思えない。目立ちたくないとか、変な奴だと思われたくないとか、それ以前に…補導されるのでは。我ながら冷静な判断に青ざめる。

ここに居てはダメだと思った、その数瞬後には立ち上がっていた。移動しようと試みるが、どこに向かうべきか決まらずにふりだしに戻る。行き先のない事実に足がすくんで、それでも家に帰るという発想ができなかったのは意地かもしれなかった。なんの意地かと言えば、外に居場所を持てないことに対する、悔しさみたいなものだ。

 

行き先未定のまま、私はちょうど青になった信号を見て交差点に足を踏み入れた。今ばっかりは、タイミングと度胸が大事だ。

慣れない雑踏にうまく進めず、道路の真ん中でもたつく。周囲をうかがうと、思い思いの方を向きながらもみんな上手に道を進んでいる。きっと、目的と居場所があるから、こんなにスムーズに歩けるんだろう。僻みにも似たことを考えながら、この人混みを抜けて、私はどこに行くのだろうかと憂鬱になった。

教室の、私の居場所はきっと塞がれているだろうと予想していた。でも教室だけじゃなく、昼間からも異物としてみなされているらしい。寂しくて、それ以上に足を止めることが怖くて、あてもないまま私は人目を避けるための暗闇を探した。

 

結局、私が逃げ込んだのは歩道橋の先にあったプラネタリウムだった。「昼間でも夜がある場所」という安易な考えだったが、結果としてその選択は間違いではなかったように思う。制服のままだったので入館の際に拒否される心配もあったが、意外にもすんなり通されて胸をなでおろした。

入場券を渡された時、私は飛び上がるくらい嬉しかった。上映時間は一時間もない。けれどその間、私は何も考えなくていい。学校のこと、将来のこと、自分のやりたいこととか、何故足を止めてしまうのかとか、そういったことを全部しまっておける。ノイローゼ気味だった私には、それがどうしようもなく幸せだった。

いよいよプラネタリウムの中に入ってみると、中央に投影機を据えて、それを囲むように椅子が並べられていた。そろそろ上映が始まるというのにあまり人はいなくて、みんな声のトーンを落として話すので余計に静かだ。私は投影機から一番遠い椅子に座り、しばらくは誰にも咎められずに過ぎていく時間を堪能した。

 

開始の時刻となり、ゆっくりと目を慣らすように明かりが落ちていく。静かに降ってきた暗闇の中で、やっと胸を苦しめていたものから逃げおおせたように感じた。外とは違って何もかもを受け入れる、ある意味で無関心な空気が心地よい。静かで、誰の視線も気にならない、そこに居るだけで良い空間。私の失態も不出来もすべて隠されて、許されはしないけれど、ひとまず心が解放された気がしたのだ。

 

宇宙の投影が始まるとともに音楽が流れた。スローテンポな曲調が私のペースと同化して、じんわり溶けるみたいに全身から力が抜けていく。ドーム型をした天井は、東京では見られないような星々で満たされている。外では太陽が高く昇っているのに、この箱の中では小さな光もまばゆく存在していることがなんだか不思議だ。

 

この時期に見られる星座に始まり、春の大三角形、春の大曲線といった星の解説を聞く。音楽に揺られて、自分の呼吸が少しずつ深くなっていくのがわかった。それに併せてずっと酸欠だった脳の感度が、少しずつ鮮明なものになる。星影が瞳に映り込んで、私の体の中にも流れ込んでくる、透明な感覚。

ぐらりと脳を揺さぶる睡魔が押し寄せた。昨晩はあんなに寝られなかったのに、まぶたがどんどん下がっていく。せっかくのプラネタリウムがもったいないと思いつつ、私は観念して身を委ねることにした。

ーーこのままで良いのかな。

眠りに入る直前、これまで幾度も反芻してきた将来への気がかりが唇を寄せてきた。この不安は深層心理にまで縫い付けられているらしい。せっかく考えないようにしていたのに、台無しだ。ささくれだつ心を静寂に似た音楽がかろうじて和らげていく。いっそ眠ることに集中しようと、私は目を硬く閉じて意識を泳がせた。星を解説する声がだんだん遠くになっていき、輪郭がぼやけていく。

 

私は…私は、たぶん、学校に行きたくないわけじゃない。

自分でも知らなかった本心が頭に浮かんでハッとする。目をそらし続けていた問題に、初めて向き合えた瞬間かもしれなかった。

私は、学校が嫌いなわけじゃない。通学は億劫なものだけど、私を停滞させているのは、たぶん学校という枠組みではない。

無意識に限りなく近いところで、吹き出すように自分の声が重なっていく。

思えば、一番苦手なことは急ぐことだった。急かされることも、それに応えられない自分も嫌いだった。だけど一番焦っていたのは自分のはずだ。人と同じことをやっても上手くできない中で、人と同じ手順を踏み続けることに焦燥を感じる。なにもかもがコンプレックスなのに、このまま、劣等生として高校生活を送って良いのか。

ーーこのままで良いのかな。

いとも簡単に答えが出たところで、私は意識を手放した。

 

上映が終わってスマホの電源を入れると、着信件数がすごいことになっていた。

そのすべてが学校と家からで、見なかったことにしようとした時にまた着信があったので危うく端末を落としそうになる。恐る恐る電話に出ると「ミツイさん、どこにいるの?」と、かなり切迫した担任の声が聞こえた。思っていたよりも、だいぶ心配をかけてしまったようで平謝りをするしかない。

「学校、無理だと思ったらそれでもいいから、保護者の方の目の届くところにいて…」

「あ…」

担任の言葉は、至極あたりまえのお願いだった。迷惑をかけないためにも受け入れるべきことだと承知した上で、私はせっかく得た安寧を手放すわけにいかなかった。

 

私は、未来について考えるのが苦手だ。心臓に氷を当てられたような、耐え難い不快感のあとにぞわぞわと全身に鳥肌が立つ。これまでの人生、いつだって行き先なんかなかったのだ。でも、ずっと停滞したまま死んでいくには、あまりにも時間がありすぎる。

このままでは、私はだめなのだ。

「…せんせい」自分のペースを乱さないよう、そして思考を止めないようにゆっくりと言葉を紡ぐ。「私、何でもゆっくりで」

会話として成り立っていない返答になってしまう。それでも、どうしても伝えなくてはいけないことがあった。

「ぜんぶ皆より遅いし、たぶんついていけないんです、でも」胸の上で握りしめた拳に力を込める。「教室じゃない場所で、わかりそうなんです」

「なにが?」

自分を頑張れる場所が。