第2話「インビジブル・ムービー」

髪の色はなんでも良かった。派手な色が保護色になることもあるから。

「ヨシダまた髪の色変えてるじゃん」と仲間うちにさんざん冷やかされ、若干呆れを滲ませた、でも面白がっている友達の言葉にニッと笑ってみせる。染め直したばかりの髪は鮮やかなコバルトブルーをたたえ、歩くたび視界に青色がちらついた。

 

「にしても真っ青だなあ」

ざわざわと落ち着かない体育館で、友達の一人が改めて私を見ながらつぶやいた。思わず声に出た、という感じだった。それに重ねるようにして、一緒にいたクラスメイト二人も「何回ブリーチしてるの」「ちびっこヤンキーめ」と代わる代わる言いたいことを言ってくる。

「まあね、思ったより綺麗に染まったよね」

自分の髪を一束つまんで持ち上げ、毛先に焦点を合わせた。光るような青色は、空や海の色とは全く違う、人工的な色相をしている。枝毛を見つけて眉をひそめ、パッと髪を離して笑ってみせた。

「文化祭だから、気合い入れたってことで」

今日は通っている高校の文化祭で、私たちは昼前に三年生の劇を観に来たところだった。土曜日なので生徒だけでなく一般の人の出入りもある中、校内は浮かれた空気に満ちている。この身体に悪そうな色も、今日ばかりは良くなじむだろう。

「てかさあ、なんでこれ観たいの」

天井の高い体育館の奥、幕が降りた状態の舞台を指差す。入学から約半年、いつもつるんでいるクラスメイト三人はじっとしていることを好むタイプとは言い難く、静かにしていることも得意ではなかった。そんな彼女たちが「この劇は観に行こう」と口を揃えたので、少なからず疑問に思っていたのだ。

「ほら一応、ハセガワ先輩のクラスだし」

ああ、と納得する。

ハセガワ先輩は、ちょっと目立つ、綺麗な顔をした三年生のことだ。女子校なのに、むしろ女子校だからかもしれないが、生徒から人気があり、私の友達は揃ってそういう話題が好きだった。要するに、校内で注目されている人の近況だとか、他の生徒の恋愛事情だとか。それは別に悪いことではないし、単純に騒ぐのが楽しいのはわかる。でも、たまに置いていかれてしまうように感じることがあった。

「好きだね、ハセガワ先輩」

普通に答えたつもりだったのだが、思ったよりも心のこもっていない声音になってしまった。やべっ、と思った時には遅く、三人の物言いたげな目に囲まれる。

「ヨシダ、本当そういうの興味ないよね」「興味ないっていうか、先輩のことあまり敬ってなさそう」「むしろ先輩と聞いてガンつけるタイプ」

さんざんな言われようだが、「やっぱヤンキーだな!」と言われたところで安心する。「ヤンキーじゃねーし!」と噛み付くと、いつも通り笑いが起きた。

皆が盛り上がっている中で私だけいまいち冷静なままでいると、「ヤンキーだ」と結論付けられるのは私たちの中でお決まりになっていた。私はそのたびに否定するけれど、ツンとして見える態度が許容されるのは、それなりに都合が良い。

 

予定した時刻より少し過ぎて幕が上がると、それまでたえず体育館に充満していた声が急に止んだ。ささやき声すらなくなって、唐突な居心地の悪さにみじろぐ。私の隣に座る友達も身を固くしており、「いわんこっちゃない」と思う。大人しく上級生の演劇を見るタイプではないくせに、無理をするから浮いてしまうのだ。

何のアナウンスもなく、唐突な雷の音から劇が始まる。何の前触れもない大音量に肩が跳ね、逆に力が抜けてしまった。

手作りなのが見て取れる大道具、既製品をつぎはぎした衣装。そこに少しだけ熱意が見える演技。きっとこのクラスには演劇部がいて、協力的でない人もそこそこいるんだろうな、という印象だった。ただ、主人公の王様役を長髪の女子が演じるのは、なんだかちぐはぐで面白い。女子校だから当たり前なのだけど、一生懸命にぎこちなく男役を演じているのが素敵だとも思えた。

もともと悲劇だったものを喜劇に改変したシナリオは、時々笑いが起きて、ただ静かな舞台ではなくなっていたことも良かったのかもしれない。それなりに満足して観終え、しかし隣を見ると友達はちょっと疲れた顔をしていた。「けっこう長かったね」と言われて、頷いてしまう。

「このあとどうする?」

「おなかへった!」

「もうお昼過ぎてるよ、なんか食べに行こうよ」

舞台の感想もほとんどなく、皆の関心はすでに昼ごはんのことに変わってしまった。時計を見て、私は顔をしかめる。劇は実際、「けっこう長かった」らしい。

「ごめん、私そろそろ自分のクラス手伝いに行かなきゃ」

「あー、ヨシダのシフト昼過ぎだったね」

「え、ご飯食べなくて大丈夫? なんか差し入れしようか」

「うーん…適当に抜け出して買うからいいや。ありがと、また連絡する」

 

早足で自分の教室に戻ると、簡素な受付と真っ黒な看板が扉の前に設置されているのが見えた。人は並んでおらず、急がなくても良かったじゃん、と肩を落とす。

私たちのクラスは教室をお化け屋敷に改造して、それを出し物にしていた。改造と言っても部屋をできるだけ暗くし、不気味なBGMをかけ、あとは机を組み上げることで壁をつくり、迷路状にした程度のものだ。それでも時折中から悲鳴があがるので、お化け役が過剰な嫌がらせをしていることが窺える。

「ヨシダ!」

「うっわ!」

扉が突然開き、暗闇から顔を出したゾンビに心底驚く。クラスメイトの誰かがパーティーグッズのマスクを被っただけだと気づいて情けなくなった。私はどうにも不意打ちに弱い。

顔の皮がほとんど剥がれたゾンビは、制服のスカートを履いたままというチープさで、しかもきわめて明るい声で「ちょっとさ、こんにゃく買ってきてくれない?」と言ってきた。

「はあ?」

思わず怪訝な顔をすれば、ゾンビはかわいらしいパンダ柄の釜口を取り出し、そこから五千円札を取り出した。

「今の時間、飲食系に客が流れててそんなに人も必要ないんだよね。だから買い物行ってほしくて。お化け屋敷にはこんにゃく必要でしょ、四十個買ってきて!」

「いや、こんにゃく、そんなに要る?」

背後からこんにゃくを首筋にあて、人を驚かせる古典的な方法は知っている。しかし、今日が最終日の文化祭のために四十個も必要とは到底思えなかった。

「要るよ。打ち上げの時に茹でて味噌つけて食べるから」

「それ要る?」

もう一度同じ質問を繰り返すが、クラスメイトは「頼んだ!」と言ってお金を握らせてきた。完全に賄賂を受け取った気分だったが、「レシートとおつりはちゃんと持ってきてね」というあたり完全にお使いだ。

不平不満を漏らしながらも、私は特別お化け役をすることに執着していなかったので従うことにした。自分のロッカーからリュックとパーカーを取り出し、それを羽織って外へ向かう。

 

こんにゃく四十個は、考えていたよりも困難なお使いだった。学校の近所のコンビニにはこんにゃくは売っておらず、しばらく歩いた先のスーパーでもあるだけ買って十個ほどだ。途方に暮れ、もしかしてあのゾンビは私に恨みがあったのでは、と思うようになったころ、お腹が鳴った。そういえば昼ごはんを食べていない。

視線を落とし、スーパーの袋に入った大量のこんにゃくをじっと見る。

今歩いている近辺に食品を売っている店はなく、代わりに人気のない公園がある。私は公園に向かうと、水飲み場の近くでこんにゃくの袋を一袋開封した。排水溝めがけて余分な液を捨て、つるりとした灰褐色の表面に噛み付く。

「うっ…」

瞬間、えずいて口元を手で覆った。刺身こんにゃくでもない、ただのこんにゃくは生ぬるい上に生臭くて、とても食べられたものではなかったのだ。一口だけかじったものを苦しみながら飲み込み、残りを呆然と見つめる。

文化祭の準備で使った緑の養生テープがたまたまリュックに入っていたので、それを使って丁寧に密封し、食べかけのこんにゃくをレジ袋に戻した。

みじめだ、と思った。

時計を見ると、すでに学校を出てから一時間が経とうとしている。文化祭の終了時刻まであと三時間。これは、無事に買い出しができたとしても学校に戻る頃には文化祭が終わりかけているのではないだろうか。そう考えると、なんだか全てが億劫になってしまった。心がモヤモヤとして、何も入っていないはずの胃が重たい。自暴自棄な気持ちもあり、学校の方角とは真反対に足を進める。

 

家に帰っちゃおう、と思ったのは、私にしてはめずらしい思考回路だった。クラスメイトやゾンビの顔が浮かばないわけでもなかったが、それ以上に空腹で気が立っていたのだ。

電車に乗って自宅の方角へ向かう。音速で帰ってやろうと意気込むが、私の家は学校からだいぶ遠い場所にあった。車内でお腹が鳴って仕方なかったので、途中の駅で降りると私は目についたショッピングモールに入ることにする。

特に遊べる場所があるわけでもないのだけど、何度か来たことのある場所だ。クラスメイトと休日にここで会ったこともあったと思う。なぜだっけ、と記憶をたぐりながら飲食店を目指すうち、私はエスカレーターを登った先が不自然に薄暗いことに気づいた。

だんだんと近づく薄闇に、油と紙の匂いが鼻孔をくすぐる。

それは、映画館特有の匂いだった。

記憶というのは不思議で、普段思い出せないようなものが、きっかけさえあればズルリと呼び出されることがある。私は今その現象をまさに体感したところで、脳裏には血飛沫や、内蔵の色や、つんざく悲鳴がフラッシュバックしていた。

厳密には、普段「思い出さないようにしていた」記憶だ。

以前ここに来たとき、私はみんなで映画を観たのだ。それも、とびきり怖いと噂だったホラー映画。

当時は六月で、学校に馴染み始めたとはいえ、クラスメイトともお互いにまだ遠慮があった。お互いの家の場所を見比べ、中間地点にある映画館がここだった、それだけでこの映画館に決めたのだ。

ホラー映画が観たい、と誰かが言った時、私は反対しなかった。

 

その日の記憶は、雨の音で始まる。

すっかり梅雨入りし、朝から雨粒が窓をたたいていた。けれど私は長靴を履いていかず、その結果として雨に濡れた靴下の感触に眉根を寄せていた。

長靴を履いていく選択肢もあった。しかし特に可愛くない長靴は、皆の中で浮いてしまいそうで辞めたのだ。

「席どこにする」「真ン中!中央より後ろ!」「じゃーこのへん…」

席を楽しそうに選ぶ友達の後ろで、私は観ようとしている映画のポスターを見てさらに顔をゆがめた。白塗りのピエロの顔には不気味な影が落ちていて、見ていて気持ち良いものではない。

「ヨシダ、何怖い顔してんの」

振り返った友達の声に反応してそちらをみると、皆一様に不思議そうな顔でこちらを見ている。

「いや、ホラー映画とかあんま観ないから…」

言葉を濁しつつ身を乗り出し、カウンターに自分の分のお金を払う。

「え、まさか怖いの」

「嘘、マジで? 意外すぎ」

意外だ、と言ったのは本心なのだろう。大袈裟に目を見開いてみせる彼女たちに非はない。なにせその時すでに、私の髪は同学年の誰より明るい金髪になっていた。学校では「派手髪の一年がいる」とそれなりに注目され、気の強そうな女という印象を与えていたのだ。思えば、この頃から私にはヤンキーキャラがつきまとっていたと思う。

「いや、怖いっていうか…どんな感じなんだろうと思って…」

チケットを受け取りつつ、ごにょごにょと言い訳をする。そのヤンキーキャラは作り物であることを、何となく言い出せずにここまで来てしまっていた。本当は髪を染めたことだって、皆に「似合いそう」と言われるがままだったのに。さらに言うと美容師に勧められるままブリーチまでしてしまい、大人しい色に戻す機会を失っているだけなのだ。

入学から一ヶ月半、せっかく仲良くなれたのだからとクラスメイトに調子を合わせ、休日に遊ぶ約束をするたびに服を新調していることを皆は知らない。私服なんて中学時代は地味なスカートばかりだったのを、なけなしのバイト代でここまで揃えたことは、もはや恥ずかしくて誰にも言えないだろう。

同じ中学から進学した同級生がおらず、友達をつくることに必死だったことも原因の一つだと思う。周囲と同調することが癖になるまで、そう時間はかからなかった。皆がやりたいと言ったことが私のやりたいことだし、皆の好きなものが私の好きなものだったのだ。

だから、ホラー映画だって観たいはずだった。

 

結果として、映画を観てしまったことを私は今でも後悔している。

映画は二時間もないくらいの長さだったが、その間、あらゆる臓器が縮む心地だった。萎縮したまま戻らないかと思ったし、その日はずっと感情を一切消したような顔だったと思う。

それから二週間くらい、私は不機嫌だった。厳密には不機嫌というより、ふとした瞬間に思い出しては嫌悪感で苦い顔をしていた。その態度が後々、さらに私を気難しい女だと思わせる事態になる。思い返すと、面白いほどに自分から乖離していく高校生活だ。

 

「お待たせしました」

頭上から聞こえた言葉に、私は意識を六月から現在に戻す。

目の前に置かれたパスタに、私は自分でも驚くほどすみやかに手をつけた。トラウマのある映画館が目の前にあるとはいえ、空腹には耐えられず近くにあった店に飛び込んだのだ。待ち望んだ食事に、しばらく無心で咀嚼をする。お腹が満たされていくと、あまり働いていなかった脳みそが今更に空虚を感じた。

せっかくの文化祭をさぼって、こんにゃくのお使いも果たさず、こんなところで何をやっているのだろう。お腹が減ると人間って何をするかわからないな、と達観すら覚えた。テーブルの上にあるコップに目をやると、水に映った私の顔は歪んで、さらに口の周りをトマトソースで汚していることに気づく。慌てて口をぬぐい、きちんと取れているか鏡で確認する。

「……」

鏡に映る自分を見ながら、無意識に髪の毛をすいた。サラサラと指先から流れる、この青も日ごとに色褪せていくだろう。自分の色を持たないことが、今は酷く虚しい。だいたい、こんにゃくのお使いだって無駄だと思っていたのに、断ることもできなかったのは人まかせに行動してしまう自分のせいだ。それでも、相手の意見を拒否することで嫌われることが怖かったし、多くの言葉を持たない私には自分の気持ちをすぐに口にできる技術もなく、受け入れてしまうのだ。

これを食べ終えたら一人で遊びに行こうと思い立つ。誰かがやりたいことではなく、私がやりたいことをやって、欲しいものを買うだけでいい。そうすれば、このモヤモヤが晴れる気がする。

とりあえず、山手線沿いに向かえば良いだろうか。人の多いところには何かしらあるはずだから。それで…何をするかは、歩きながら考えればいい。

 

ひとまずの目指す場所があれば、行動するのは簡単だった。モールを出た私は電車を乗り換え、緑の電車に乗りこむところまで実に順調だった。それなりに人がいる車内で、ドアに近い場所の手すりにつかまる。

さてこれからどうしようか、と私が路線図に目をやったとほぼ同時、目の前の座席から「あ、」と声が挙がった。声のした方を見て、私は視界が揺れるような衝撃を受ける。

「なんで」

目を白黒させる彼女に、それは私が聞きたいんだけど、と口にするところだった。目の前に座っていたのは、私と同じ制服を着た人間だったのだ。

時刻はまだ三時過ぎだ。そんな時間にうちの学生がここにいるのは、言い逃れの余地もなくサボりということになる。つまり、私たちはサボり同士で鉢合わせしてしまった。まさか、こんなことがあるのだろうか。

「あの、私、買い出し、というか、」

あまりに突然のことで、しどろもどろに嘘をついてしまう。

「あ…そうなんですね」

少し気まずそうに視線を泳がせた彼女は、「私は、学校ぬけてきちゃって…」と打ち明けた。なんて素直な人なんだろう、と落胆する。

「すみません、私もサボりです…」

「あ、あ、本当ですか?」

 

私の告白に目を輝かせる、彼女の名前はミツイさんと言うらしい。お互いになんとなく名乗りあって、ミツイさんは私より先輩であることもわかった。

短い黒髪に黒目がちな瞳を持つ彼女は、ちょっと目立ちそうな顔立ちをしていた。綺麗な先輩が大好きな私の友達の間で、話題にならなかったのが不思議なくらいだ。もしかすると帰宅部とかで、後輩と交流する機会を持たない人なのかもしれない。実際、私は学校でミツイ先輩を見た覚えがなかった。

「先輩は帰宅中ですか?」

「ええと…時間潰してるだけで、山手線もう三周目なんだ」

苦笑いするミツイ先輩に、マジかよ、と素の声が出そうになる。無難な質問に対して、返って来た答えがあまりにも突拍子のないものでたじろいでしまった。ひたすら電車に揺られ、他の場所に行きたいとは思わなかったのだろうか?

三周、すさまじいですね、と曖昧な返事をすると、ミツイ先輩は口元を緩ませ、目を伏せた。褒めてないのになあ…と微妙な気分になる。

はっきり言って、ミツイ先輩は第一印象からあまりにも変人だった。その上、初対面の上級生に対して長く話が続くわけもなく、そのあとは無言のまま三駅やり過ごしてしまう。居心地の悪さに逃げ出したくなった。しかし別の車両に行くのも失礼なように感じるし、かと言ってミツイ先輩は降りる気配が全くない。動かざること山手線、という妙な言葉が浮かんだところで頭を振った。

せめて逆方向に乗れば良かったと後悔する。適当に乗った外回りの電車は、あまり降りたことのない駅ばかりを過ぎてゆくのだ。

さらに三駅過ぎたところで限界を感じ、次の駅で一度降りようと決意する。やがて止まった電車に、ようやくこの気まずさから解放されると一人沸き立った。「じゃあ私はここで」と告げて足早に電車を降りる。

降りたホームで、ため息とともに肩の力を抜く。完全に油断していた私は、背後から聞こえた「あの」という声に思わず持っていたこんにゃくをぶちまけてしまった。

振り返ると、ミツイ先輩があわあわと散乱したこんにゃくを前に取り乱している。

「ご、ごめんなさい、あの…同じ学校の人とお話できたの嬉しくて…もう少し話したくて…」

この人ヤバい人だ、と自分のこんにゃくテロを棚に上げて私は真顔でいた。

 

二人でこんにゃくをかきあつめる中で、彼女はぽそぽそと自分のことを話してくれた。どうやら彼女は不登校が続いていたらしく、最近は教室に行けるようになったものの、保健室登校の頻度も少なくないようだ。どうりで見かけたことがないと思った。

最初は、あの気まずい車内が先輩の中では「お話できた」範疇に入っていたらしいことに慄きを隠せないでいたが、そういう事情を知るとなんだか腑に落ちてしまう気がする。クラスに全く馴染んでいない人間にとって文化祭は地獄だ、と熱を入れて語る先輩に、ちょっと笑ってしまった。

「ところで、これからどこに行くの?」

無邪気に訊いてくる先輩に、なんと答えるべきかと言い淀む。

自分の意思を訊かれると、何もない自分を改めて思い知らされるので悲しかった。今は方向を決めてくれる他人も、いつもは鬱陶しく感じるルールすらない。「なんにもない」が、こんなに苦しいとは思わなかった。からっぽの胸が疼くような、いたたまれなさに目を泳がせる。

誰にともなく後ろめたさを感じながら、無計画であることを打ち明ける。何かしら追及されるかと思ったが、ミツイ先輩は「なんだ、よかった」と予想外の反応をしてみせた。

「人と会う用事とかだったら、私一緒には行けないなって思ってて…」

時間を持て余しているようだったら私と遊んで欲しい。そんなことをいじらしく言われて、私はまたも断る術を失ってしまった。

 

私たちは連れだって改札を出た。とりあえず駅の外に出てみただけで何かできるわけではなかったが、隣を歩くミツイ先輩は嬉しそうだった。お互い口数は少ない方だったけれど、学校を抜け出した経緯なんかを話したりして、私たちは少しずつ打ち解け始めた。先輩の話はすべてが常軌を逸していて飽きないし、こんな日があっても良いかと思い始める。

しばらく歩いたところでスマホがぶるぶると震え、取り出すと友達から着信が来ていた。先輩に一言断りを入れて出ると、開口一番「ヨシダどこいんの?」と訊かれた。

「えーと…」

最寄りの駅をつげると「はあー? わけわかんない」と至極もっともな非難の声を浴びるはめになる。完全にこちらが悪いので、「連絡しなくてごめん」と精一杯謝った。

「今クラスで、ヨシダがこんにゃく探して神隠しにあったって凄い騒ぎだよ」

「神隠し」

クラスメイトたちは怒っているというより、とんでもない憶測で盛り上がっているらしいことだけはわかった。

「ねえ、打ち上げ始まる前に学校もどって来なよ。そんで、こんにゃく別に要らないから。買っちゃった分は文化祭予算から下ろして良いみたいだけどさ」

やはり要らない買い出しだったらしい。落胆するような、安堵するような、とにかく身体がゆるりと脱力する感覚に乾いた笑いが出る。「もう買っちゃったよ」という言葉を飲み込んでしまったのは、心配してくれていた皆へのせめてもの誠意だった。

ただ、学校に戻ってこいという言葉には答えあぐねた。

少し遠くにいるミツイ先輩をチラッと覗き見る。彼女は近くにあった建物を覗き込んだりして、時間を弄んでいた。背が高くて線の細い彼女は、そうしてフラフラと歩いていると本当におぼつかない。上級生だと言うのに、彼女をこのまま一人にしてはいけない気がしていた。

ミツイ先輩、と念じてみる。あと三秒のうちに彼女が振り返ったら、学校には戻らず先輩と一緒にいようと思ったのだ。

でも、三秒が過ぎたとき、ミツイ先輩は私の方を振り返らなかった。

深く息を吸う。不自然だと思われる前に、答えなくてはいけない。

「…ごめん、実は体調悪くて」

なんでそう口にしたのか、しばらく自分でも理解できなかった。せっかくの打ち上げに参加しないなんて、付き合いが悪いと思われても仕方ない。せっかくここまで良い友達でいたのに、少なからず関係に傷をつけることになるのではと危惧した。でも、私はそれ以上にミツイ先輩のそばに居たかったんだと思う。

私の心臓はいつもより速く鼓動を打っていた。だって、これは私にとって初めて友達の誘いを断った瞬間だったから。

「えっ、そうなの!」

友達の口から、恐れていたような言葉は出なかった。

「そういうのはやく言ってよー。ねえ、ヨシダ体調悪いんだって!」

続けざま、遠い声で「まじかヨシダ!」「すぐ寝ろ!」と聞こえる。文化祭の熱が冷めていない声音だったが、それぞれに気遣ってくれているのが電話越しに伝わった。酷く安心して、吐く息が震えた。「うん、ごめんね、こんど埋め合わせするね」そう言いたいのに、喉が閉じてしまったみたいに声が出ない。

最後にはうしろめたくなるほど「お大事に」と言われ、私もさんざん「ありがとう」と返しながら電話を切る。

通話終了の画面のまま、スマホを握りしめて胸にあてた。きっと、私が無理にキャラをつくらなくたって、彼女たちは受け入れてくれたんだろう。そう思うと、自分のやりたいことすらわからなくなった心臓にじんわり血が通う。これまでの高校生活が頭の中を駆け巡り、ガラスの向こうにある宝石を見ているみたいな気持ちになった。自分を見せてこなかった私は本当に、友達に対して不誠実だ。

 

「ね、これなんだろう」

ミツイ先輩のもとに戻ると、彼女は私の電話の内容など全く興味を示していない様子だった。苦笑して先輩の指差す方を見ると、壁にポスターが貼ってある。「歪んだ鉛筆は誰かに折られないために」と文字が印刷されているのが見えた。

何をするのか良くわからないタイトルに首をかしげる。

「日付今日だ」ミツイ先輩は興味津々の様子でポスターを眺めている。「行ってみたいな」

「えっ、これ、なにするイベントですか」

「なにするんだろうね」

「なにするかもわからないのに行くんですか」

「うん…ダメかな」

どことなく、ミツイ先輩は運任せに行動している雰囲気があった。ふらふらしているというよりは、彼女なりにタイミングとか流れを大事にしているのかもしれない。

「…他にやることないですもんね」

私も行きます、と口にすると、ミツイ先輩は嬉しそうに頷いてみせる。

友達の誘いを断ってまでこの先輩と一緒にいようと思ったのは、まぎれもなく自分の意思だったはずだ。今日くらいは、自分を貫き通してみたい。